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広報しき 令和元年6月号

〈特集〉いろは樋のい・ろ・は

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埼玉県志木市

2020年に市制施行50周年を迎える志木市。現在の志木市という名になったのは、市制施行に際して定められたものですが、発掘調査では、約3万年前の旧石器時代の石器が発見されており、志木にはじめて人が住むようになったのはその頃と推定されています。
今月は、長い志木の歴史の中でも江戸時代から昭和にかけ、志木市域の発展に大きく貢献をした「いろは樋(どい)」に焦点をあて、ご紹介します。

■(い)いろは樋とは?
志木市のシンボルともなっているいろは樋は、玉川上水から引いてきた野火止用水を現在の宗岡地区へ、新河岸川を越えて引くために、新河岸川の上に架けられました。
江戸時代に作られた用水路「野火止用水」は、開通後しばらくは、新河岸川に流れ落ちていましたが、その水を宗岡地区の稲作でも利用できるようにするため、寛文2年(1662)(一説では、万治2年(1659))、川の上を渡す大きな樋を作り、米の生産力増大を図りました。
その後、木製の掛け樋(ひ)は洪水の度に被害を受け、その修理にはかなりの出費を強いられたため、鉄管を地下に埋設しました。
いろは樋から引かれた水は、宗岡地区の田畑を潤し、収穫量も大幅に増加、人々の生活を豊かにしました。現在では、用水は役目を終えましたが、今も宗岡地区では毎年おいしい米がたくさん収穫されています。

▼いろは樋の豆知識
・いろは樋の名前の由来
掛け樋が48個の樋をつないであることから、48文字からなる伊呂波仮名にちなんで「いろは樋」と呼ばれました。
・いろは樋の長さ
長さ:約260m
幅と深さ:各42cmあまり
水面からの高さ:約4.4m

■(ろ)本町地区を潤した野火止用水
野火止用水があったからこそ作られたいろは樋。そもそも野火止用水は、承応4年(1655)に開削された玉川上水最大の分水路で、新河岸川が最終地点でした。現在の東京都小平市から新座市、志木市本町を経て新河岸川に至る約24kmで、標高差を利用した自然流下方式によって送水されました。
野火止用水は、わずか40日で完成し、沿岸地区は、農業生産力が上がり、この地域で生産された農産物は、引又河岸から江戸へと出荷されるようになりました。
飲料水としても長い間利用された野火止用水は、たくさんの水路に分水され、現在の本町・柏町・幸町・館の広い地域を潤しました。また、いろは樋によって新河岸川を越えた水は宗岡の農業用水として重要な役割を果たすなど、野火止用水ができたことで志木市は大きな恩恵を受けたのです。

■(は)志木市のヒーロー松平信綱と白井武左衛門
志木市に繁栄をもたらした、野火止用水を開削した川越藩主松平信綱(まつだいらのぶつな)と、いろは樋を作った白井武左衛門(しらいぶざえもん)への感謝を表すため、明治41年(1908)に頌徳碑(しょうとくひ)が建立されました。
また、いろは樋を架設した白井武左衛門は、宗岡地区の洪水を防ぐために佃堤(つくだづつみ)と新田場堤(しんでんばづつみ)を作り、治水整備にも尽力したことから、白井武左衛門が亡くなってからも、村民から感謝が続き、文化10年(1813)に供養塔が、明治43年(1910)に治水碑が建立されました。
現在でも、今日の志木市の礎を築いた偉人たちの足跡を市内で見ることができるので、水と志木市の歴史を感じながら、訪ねてみるのもいいですね。

▼(ちょこっとコラム)志木のシンボル「いろは樋」
「いろは橋」「いろは商店街」「いろは遊学館」…。志木市には「いろは」と名のつく施設や場所がいくつもあります。これは、いろは樋が架設されたことによるもので、いろは樋が大切なものであることがうかがえます。
現在、郷土資料館に当時実際に使用していたいろは樋の樋の部材が展示されています。

問合せ:生涯学習課
【電話】内線3143

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